沿革

参勤交代の制度化により、日本中の大名が江戸に集まり、政治・文化的に江戸が日本の中心となりました。
また、隔年に大名行列が五街道その他の街道を通行することで、街道が発達しお金・情報の流通が進みました。
参勤交代は、大名が将軍の支配下にあるということを表わす服属儀礼であり、参勤しないことは幕府への反逆と見なされます。

参勤交代が制度化される前段階として、大名が親族を江戸へ人質に出す、あるいは自身が江戸へ参府することが頻繁に行われていました。
これは、関ヶ原の合戦前にあって、旗幟を鮮明にしておこうという大名の考えであったようです。
そこから、大名は江戸に邸地を与えられるようになり、参勤への定例化へつながっていきました。
1615年、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後は、毎年のように江戸へ参勤が行われるようになりました。
大名は、将軍に対する忠誠心を示すと共に、各国の情報収集も行っていました。

1635年、3代将軍家光の代に発令された武家諸法度(寛永令)により、参勤交代が制度化されます。
それ以前にも、慣習として、毎年各大名がどの時期に江戸に行き、どのくらいの江戸滞在を経て国元に帰るかは決まっていたようです。
しかし、やはり礼儀として、毎回いつ参府すればよいか、いつまで滞在すればよいかを幕府に対してお伺いを立てなければなりませんでした。
勝手な行動は、後でどのような処罰が降りかかるか分からず、かなり緊張を強いられるものだったと推察されます。
参勤交代の制度化は、この手続きをしなくてもよくなったという点では、大名の負担が軽減された側面もあるかもしれません。

8代将軍吉宗の代には、上米の制の開始とともに参勤交代の緩和が実施されます。
吉宗の時代、幕府は旗本に給料も払えないほどの財政難でした。
そこで、吉宗は大名の石高に応じて、1万石につき100石の割合で、米を上納させることを命じました。
この制度は、大名にとっては財政面において苛酷なものであったようです。
吉宗は、上米の代償として、江戸に滞在する期間を半年減免するというように、制度を緩めることとしました。
この上米の制は約10年間続きましたが、その後は停止され、参勤交代も家光の代に制定された形に戻されました。
幕府の財政を大名に依存することは、幕府の権威低下にも繋がるといったような、種々の問題点があったためといわれます。


逸話

参勤交代では、江戸からの行き帰りに必ず他の大名の領地を通ることになります。
当時の大名は、他の大名の領地を通ることに対して、多大な気遣いを強いられていました。
現代人の感覚では、他所の家の庭を通るような感覚であるようです。
事前に、「〜月〜日くらいに通ります。ご迷惑をおかけしますが、よろしくお願いします。」というような挨拶をしておくことが慣習でした。
そして、通られる側も気を遣うもので、街道を掃除したり、社交辞令で「城にもどうぞお立ち寄り下さい。」のような返礼がなされました。
街道を通りやすいように軟らかい土を道に敷いたはいいが、雨でドロドロになってしまって、かえって通る側が難儀したようなこともあったようです。

また、明石藩のお殿様が参勤交代で江戸に向かうときの話です。
明石藩一行が尾張藩の領内を通るときは、大名行列の体をなさず、武士は百姓や町民の格好に変装して通る風景が見られました。
その発端は、尾張藩の猟師某の子どもが、明石藩の大名行列を横切ってしまったことでした。
大名行列を横切るということは、大変無礼な行為であり、その場で切り捨てられても仕方がないことだったそうです。
しかし、この時は、その子どもが三歳というまだ分別もつかぬ年齢だったこともあり、村の名主や本陣の亭主は、殿様に対し必死の助命嘆願をしました。
その嘆願に対し、殿様はそれを全く聞き入れず、その幼児を斬り捨てさせてしまいました。
この時の明石の殿様というのが、12代将軍家斉の第53子であり、その血統に対する自負もあったのか、そのような暴挙に及んだわけです。
しかし、大変なのはその後のことで、明石の殿様の行為に対して尾張の殿様が激怒しました。
いかに大名行列を横切ったとはいえ、自身の領民が勝手に殺されたことへの殿様の怒りはすさまじく、今後明石藩の尾張藩領への立ち入りを一切禁止しました。
明石藩としては、明石から江戸に向かうには尾張藩領を通らないわけにはゆかず、仕方なく冒頭のような扮装をして尾張領内をこっそり通るという仕儀に陥ったというわけです。


参考文献

山本博文『参勤交代』(講談社、1998年)


内容作成:2009年4月11日
HP上載日:2014年2月2日